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2010年
4月16日(金)

■……名前を記憶するということ

(ある環境ワークショップでの話)
  もう随分と昔(20年ほど前)になりますが、「環境ワークショップ」というも
のに参加したことがあります。そのワークショップの中で、講師(ファシリテータ)からある樹木についての紹介があったのですが、受講者の一人がその樹種名を熱心にノートに書き込んでいたところ、講師から注意されました。注意された理由を大まかにいえば、名前を記述するということはそう重要ではない、受験勉強の方法(要は「詰め込み学習」)から脱する必要があるというものでした。私も聞いていて、なるほどと思いました。確か、指摘された本人も納得していた感じでしたが、後から考えてみると何となく釈然としないものが澱(おり)のように残りました。

(本質と形式と)
  確かに樹種名を記憶する学習方法というのは、環境を学ぶ本質からズレているかもしれません。本質を学ぶことが「かっこいい」ことだとすると、名前を記憶するということは、いかにも形式的で「かっこ悪い」行いのようにも思えてきます。このような二項対立的な論点提示は、「美学的」(かっこいい・悪い)に訴えるものを感じます。ですので指摘された方は、なんとなくバツが悪いように見えてしまいます。

(名前を覚えるという行為は「形式的」か?)
  私は男性なのでその立場でいうと、たとえば子どもの頃好きになった女の子ができれば、名前を知りたい・覚えたいという欲求が普通に出てきます。まぁー、樹木の名前(一般名詞)と女の子の名前(固有名詞)を一緒くたに論じることに無理はあるかもしれませんが、ここではそのことは置いておきましょう。 
  たぶんですが、アタマの中にある記憶する箱のようなところに、写真で写したように「顔」を記憶し「箱」に格納する、同じように「名前」を記憶し「箱」に「格納」する。それで好きなときに「箱」から「記憶」(顔・名前)を自由に取り出せるようにする、そんなプロセスのように想像します。このようなプロセスを経て記憶される「顔」や「名前」は、私なら私にとって特別な意味を持ちます。そりゃー好きな女の子のことなので「特別な意味」を持つに決まっていますよね。

(名前を覚えるという行為)
  冒頭の樹種名を覚えるという行為が形式的行為として指摘されやすい理由を考えてみると、歴史(日本史など)なんかで年号なんかを暗記する行為とひとくくりにされやすいことが大きいのではないかと思います。
  今となってはもうかなり忘れてしまいましたが、以前は私は大阪にある街路樹の樹種をかなり記憶していました。これは仕事上、必然的に覚えてきたものです。通り(街路)の雰囲気と樹種の雰囲気がなんとなく「まとまった記憶」として残るんです。とくに落葉樹の冬の雰囲気が、私にとって記憶に残りやすいようです。街路樹の樹種を覚える前と覚えた後を比較すると、なんとなくですがそれまでとは景色が異なって見える感じがしました。

(「名前を記憶するということは、何かを愛でるはじまりである)
  もう一度冒頭の樹種名を記憶するという行為に立ち返ると、私の思うところでは、「名前を記憶する」ということは悪いことではないんじゃないか、ということです。確かに、暗記のように「それは本質とかけ離れている」というマイナスイメージがつきまとうケースもありますが、そうばかりではないということです。
  誰かのことが気になる、何かのことが気になる、失われていく何かを残したい、自分が探していたものに出会えたなどなど...それが「音楽」でも「映画」でも「好きな女の子」でも「ラーメン」でもいいのですが、何か自分の心の中に「大事なもの」として芽生え形成されていくプロセスは、大げさにいえば人間としてすごく大切なことなんじゃないかと思えるのです。そして、そのプロセスのひとつに「名前を記憶する」という行為があったとしても、それは「機械的な行い」として非難される対象ではなく、本当は人間的で泥臭いものじゃないか、そのように私は思います。


 

 



 






※写真は全てイメージです
 
 
 
 
(文:与那嶺 学)
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