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2008年
10月1日(水)

経験主義、当事者主義を超えて

 少しまどろっこしい表現になりますが、私は“地域の産業の活性化を応援する”という仕事をしています。いまこうした仕事でよく指摘されていることの一つに、“当事者性”、“現場性”というキーワードがあります。
当事者性と現場性は厳密には異なる概念だと思いますが、ここでは便宜上同じようなものとして扱います。共通すると思われることは、“経験がないとわからない”、“当事者でないとわからない”という見方があるかと思います。
これについて少し考えてみたいと思います。
 
(企業経営者でなければ、起業家のことはわからない?)

  企業経営者は、日々いろんなことで悩んでいます。こうしたこともあって、起業家も経営者なので、経営者こそ起業家の悩みを理解できる、というロジックが成立しそうです。 これは渦中におかれている人の立場は、経験者や当事者が最も理解できるという論旨につながります。私個人としてはそう思うところと、そう思わないところがあります。 あるカテゴリーの課題について、経験者の有する経験や当事者の抱える状況が、その解決に生かされることはたいへん重要なことだと思います。その意味では賛同できます。

一方でこのコラムは、「IMコラム」というもので、IM(インキュベーション・マネジャー)が書いています。IMという職業は、起業家を応援する仕事ですが、IM職で経営者を兼ねている人は、そうたくさんいるわけではありません。
企業経営者でなければ、起業家の気持ちがわからないとすれば、IMという仕事は企業経営者もしくは企業経営の経験者が就くことがふさわしいという考えになりそうですが、実際はどうなんでしょうか。

(絶対に他者が追い付けないところに自分の身を置くという論理展開)

  たとえば戦争に賛成する、反対するという議論の場合、戦時体験をもった人の意見を「絶対視」する見方もあろうかと思います。同じように、高齢者の立場、障害をもつ人の立場、人権を蹂躙された人の立場...このように一つひとつあげていくと、あるカテゴリーに該当する固有の絶対的な立場の人はたくさんいることに気付かされます。 障害者運動でもいいですし、エイズの撲滅運動でもいいですし、人権運動でもいいですが、当事者でなければわからないある種の“溝”のようなものは多かれ少なかれあるかと思います。たとえば運動体で意見や見解が分かれたとき、「当事者の意見を聞いてみたい」という判断が出てくることも想定されます。

 そして時には、「当事者でないあなたに何が理解できる?」という局面もありそうです。しかし、当事者でないとわからないという溝のつくり方は、説得力に優れる反面、絶対に他者が追い付けないところに自分の身を置くという論理展開になっているともいえそうです。 これが行き過ぎると、経験者や当事者の発言、考え方が「上位概念」として固定化される危惧もあるように私個人は思います。 そうはいうものの、当事者以外の人ばかりが頑張っている運動体というものおかしい感じ、しますよね。
 
  話を再び経営者に戻すと、経営者は孤独であるという定説があります。たぶん、反論する経営者はあまりいないと思います。しかし、経営者の孤独は経営者にしか理解できない、と経営者が発言したとたん同じような”溝”をつくってしまいます。
飲んだ際の愚痴としていいですが、一年中こういう発言をしたところで、溝は溝のままで埋まらないか、へたをすると広がったりもします。

(本当は、一見無関係な人に救われることも多い)

  私が文学作品をよく読んでいたのは20代の頃でした。当時の好きな作品の一つに「欲望という名の電車」(テネシー・ウイリアムズ著)があります。劇や映画にもなっている作品として有名でご存じの方も多いかと思います。
つたない記憶をたどりますが、この作品のエンディングで、主人公のブランチが、私はこれまでも見ず知らずの人に助けられてきた旨の発言をしています。人は自分が悩んでいたり苦しんでいるとき、境遇を理解してくれると信じている他者の存在に寄りかかりたいという欲求があるかと思います。 これはこれでよく理解できます。
 
  しかし、主人公のブランチではありませんが、あなたにもこういう経験はありませんか。悩みや苦しみをあまり理解していない感じの人に、「まぁー、ええやんか、元気出していこ!」というような言葉に救われたことが。

(経験主義、当事者主義を超えて)

  再び、IMと起業家、企業経営者の話に戻りますが、一見すると企業経営者は起業家の気持ちがわかるような気もしますが、それは幻想かもしれないと考えるほうが現実的ではないかと思います。 というのも、私は起業家であった時期(いまもそうかもしれませんが)、企業経営者の現在、そしてIMという仕事にかかわっている立場でいえば、当り前のことですが、起業家も企業経営者もIMも、それぞれが多様であるという事実です。
小泉元総理でありませんが、起業家もいろいろ、企業経営者もいろいろ、IMもいろいろです。ただし、IMならIMで「どうしたらこの人(起業家)の気持ちが理解できるか?」という、想像力をできるだけ働かせる努力はないより、あったほうがいいと思います。
 
  このように“当事者の気持ちを理解する努力”は大事なことだとは思います。でも案外、IMが想像する範囲での起業家の悩みや苦しみを、半分は知らん顔して、「まぁー、ええやんか、元気出していこ!」的なふるまいも私自身は結構大切ではないかと思っています。こうした接し方について、人として冷たいのではないか、あるいは悩みや苦しみを(互いに)さらけ出して、という指摘も成り立ちます。これも大切な指摘ではありますが、すべてをさらけ出すということは、さらけ出した相手について“そのあとを引き受ける”覚悟が必要だと思います。
この覚悟なくして相手にさらけ出せというのは、ある種暴力的な対応にもなりかねないと思います。適度な距離を保ちながら、相手のことを慮(おもんぱか)るということは、静かな心のもちようではありますが、大切なことだと思います。

 テネシー・ウイリアムズには、「欲望という名の電車」以外にも、「ガラスの動物園」、「熱いトタン屋根の上の猫」という優れた作品があります。私はとくに、「熱いトタン屋根の上の猫」が好きで、この作品は1955年のものですが、ガン告知、同性愛など今日的なテーマにあふれています。ぜひご一読をお勧めします。


 

 
          
  
※写真は全てイメージです。
 
(文:与那嶺 学)
 
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