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2008年
9月16日(火)

「わかりやすさ」の時代に

 アメリカのサブプライム問題は、その影響がまだまだ広がっているようです。
暮らしや産業をとりまく状況は、不透明感が増すばかりです。社会に不透明感が浸透すると、どうも「わかりやすさ」や「断言してくれる他者」の存在が求められるようです。

(二元論では片付かない問題はたくさんある)

  Aという考え方か、Bという考え方かを提示または問うことを一般的に二元論といいます。ある争点・論点で本当に選択肢がその2つしかないのか、またどちらか一方を急いで決めることが本当に重要なことなのかどうか疑問も多いのですが、議論をわかりやすくするための手法の一つにもなっています。
 
  日々の経営の中で、このような二元論に直面するのは、たいていが「直近」のことだと思います。というのも、今日明日にでも判断が必要なときに、あれこれぶれていたのでは経営判断にならないからです。いい例が決済ですね。決済が早いということは、当該企業の経営判断にスピード感があるイメージを想起させます。大事なことの一つだと思います。
 
  ところが少し中長期のこととなると、そう簡単に二元論では片づけられないことはたくさんあるはずです。“あっちを立てればこっちが立たず”という状態(状況)のことを「トレードオフの関係」といいますが、このトレードオフの関係が玉突きのように複雑に入り込みます。たとえば、現在2つの事業分野を手掛けている企業が、一つの事業分野に経営資源を集中する、ということでも、一つに絞ることによる経営リスクも生じます。また、集中する事業分野に将来のニーズがあるかどうかの論理的な検証作業も必要になるでしょう。さらに余剰する可能性のある人員の配置をどうするかという問題も生じます。にもかかわらず、二元論が求められるのは、「直近の判断」が相当求められ、また中長期の展望を描くことが難しくなっていることの証左だと思います。

(二元論は、安定の代替として求められている)

  「安定」という言葉は、とうに形骸化しているというのが多くの人の感覚だと思います。中長期的な安定や、生命・生活の安心感は、私個人としては極めて大切なことで、今日と同じように明日が来る、ということが「安定」の本質的なところだと思います。ところがこの原稿を書いている昨日も、アメリカのリーマンブラザースの破たんが大々的に報じられています。毎日何があるかわからない世の中ですね。
 
  人によって考え方はいろいろあると思いますが、私は「やった人が報われる社会」よりも、「当り前に生活できる社会」を求める人が多いように思います。
「当たり前に生活できる社会」を民意で取り戻せればいいのですが、それはどうやら難しいらしい、ということもなんとなくの社会の合意になっているようにも思います。安定をあきらめる社会の雰囲気のなかに、二元論はすっと入りこんでくるのだろうと推測します。安定が簡単に戻ってこないことに対する、ある種の「恨み」に近い感情で二元論が提示され、選択されているように感じます。しかし二元論的なもので、多くの人が幸福に近づくとは考えにくいと思います。

(断片的でもいいから、未来へ向けてのコンセプトが必要)

  いま、あらゆる分野を統合するような“あるべき社会システム”を社会に提示することは非常に困難だと思います。グローバル化や金融経済など、外部環境の影響が大きすぎるからです。この困難にチャレンジすることも大切だとは思いますが、断片的でもいいので、未来へ向けたコンセプトを提示することはより重要ではないかと思います。
 
  たとえば年間3万人とも4万人とも言われている自殺者数を減らしていこう、というようなことでもいいと思います。自殺者を減らすことは無理という意見や、現実的でないという意見もあるかもしれません。しかし、現実と合わなくなっているから「理想」も現実に合わせるべき、というのは悲しすぎると思います。生命や暮らしのベースとなる部分では、理想は大切にされるべきだと思います。断片的でもいいので、こうしたコンセプトの提示がたくさん出現することを祈ります。

(道徳心をもつゆるやかな企業の連合体をつくることはできないか)

  私がぼんやり思うことは、道徳心をもつ企業がつながることができないか、ということです。コンプライアンス(法令順守)は当然大事だとは思いますが、それより大事なことは「道徳心」だと思います。ここでいう道徳心とは、“誰も見ていないかもしれないが、神さまのような存在がこれをみていたらどう思うか”というある種の規律のようなものです。別段特定の宗教を説いているわけではありません。いうなれば「良心」のようなものです。

  それはたとえば、協力会社に過度の負担(価格・納期など)を求めない、雇用している人材は継続を前提とする、お客様に対して最低限の品質を維持する努力を惜しまない、などです。本当は、それでも現実にはうまくいかないときもあるかと思います。そんなとき周囲にいる企業(経営者)は、うまくいかない企業(経営者)をときには叱咤し励まし、ときには一緒になって肩を落とすのです。こういう関係をつくることが今後より重要になると思います。そしてより理想をいえば、こうした動きに消費者が関わる動きが出てくることを期待したいものです。今後は、「食」の分野を中心に、消費者と生産者・供給者が結びつく動きと、消費者と生産者・供給者が現在よりさらに分断される動きの二分化が進むのではないかと思います。消費者側でも、生産者や供給者とかかわると簡単に二元論やわかりやすさだけで判断することが難しいことに直面する場面も増えてくるかと思います。たとえば少量の農薬を使うことの是非や、豊作と市場価格の維持の関係をどう捉えるかなどです。
 
  道徳心はコンプライアンスと比較するとわかりにくい概念です。また、努力してできる場合とできない場合があることも想像できます。これも「コミットメント」(約束ごと)と比較するとわかりにくいものです。また、いまの景況からは、道徳心どころではなく、なりふりかまわない姿勢が重要との反論も出てきそうです。
 
  それでも、わかりにくく時間がかかることであっても、少し先のコンセプトを提示することの大切さをできるだけさくさんの企業と共有できればと考えています。消費者・生活者も企業も、短期的な判断を連続的に二元論でさばいていくにはいずれ限界も生じると思われます。

 

 
            
※写真は全てイメージです。
 
(文:与那嶺 学)
 
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